昭和57年4月15日 朝の御理解
明渡 孝
御理解第92節『神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ』
先日、ビリグイの市長さんから、この春の大祭のお祝いのメッセージが届きましたが、その中に、今までと変わった表現でお礼を言うておられることは、こちらに、私、みなさんの分かられるような言葉で言うと、金光様がこのビリグイ市にみえられて、たいへんおかげを受けておる。取り分け、この天地のことが自由になると言われるが、このビリグイ地方には、いうなら、何というですか、周辺はもう、台風でめちゃめちゃになるといったようなとこがその、ビリグイ周辺だけはなからずにお守りを頂いて、おかげを受けておる、という意味のことが書いてございます。
昨日は、末永先生から、大祭のお届けと、それから現在のおかげを受けておる模様を、まあいろいろ書いてよこしておりましたが。取り分け、ロンドニアの分教会の方での、まあ助かりが、特にブラジル人の方達が圧倒的に多くて、ご本部にもその報告をさせて頂いた。サントマイロの方にも新たな信者が増えておるという報告を、まあ報告と言うか、昨日は、まあ受けたわけでございますが。
中に、今あちらは、雨が続いておるんだそうです。ですから、この調子で降り続いたら、今綿の収穫時だそうですが、その綿が全滅してしまうと言われるような心配の中に、ある大きな農場を持っておる方の、がお参りして来て、お届けがありました。そしたら、明くる日からお天気が上がったとこういう。
ある信者がそのことを「ちょうど止む時期になっとったんでしょうね」とこう言う。ね。末永先生としてはやっぱ「そうかなぁ」とこう思うたとこういう。ところが、ここにひとつ不思議なことが起こってまいりました。というのは、私が御結界を離れますと、今にも降りそうになり、私が御結界を奉仕すると、曇っておる天気が明るいっち。
そういう不思議を見て、信者は、降りのお天気になる時期が来てお天気になった、と言うけれども、取次者自身、私だけは、神様の、いわば凄まじい働きにおそれいって、日々御用ができておるということが書いてありました。
ああいう天候不順な、まあお国だそうですけれども、そこで、いうなら天気が自由になるようなおかげを受けておる。取り分けあちらでは、非常に泥棒が多いところだそうです。もうそれは、お話にならないようなですね、私ども日本人から考えたら。もうとにかく、泥棒に入られたら最後、もう屋財家財持って行くそうですね。ね。もう持って行きらんとは、朝入ったけんもう大丈夫ち思うと、晩に入るそうです。
もうとにかく、そういうような状態の中に、ある方がお月次祭にお参りをして来た。そして、途中で思い出したことは、鍵を掛けて鍵をそのまま忘れてきたと。だから、すぐ帰らせて頂かなければというお届けに対して、末永先生が言っておることはね、「あんたが途中で思い出して家に帰らずにね、神様の方へ参って来た。もうそこで答えは出ておると同じだ。もうそれで決まった。心配いらん、お祭り頂いて帰りなさい」と、というてと言うのです。ね。
私は、このへんのところがね、今日の御理解の「守り守りの力によって」というのは、そういう、今こう聞いて頂いたね。確かに合楽理念に基づいてということではありましょうけれども、合楽理念の頂き方がです、その頂く力が、いわゆる、今南米ブラジルの上に、いうならばビリグイ周辺に起きておる、凄まじい働きともなって現われてきておるんだと思うんです。「はあ、そんなら、早帰りなさらな泥棒どんが入ってはならんから」ということではない、ね。
もう、あなたがね途中から「ああ、鍵を忘れ置いてきたから」と言うて帰っておったらどうか分からんけれども、あなたが神様の方へ向うて来た時には、それは心配はいらんという答えが出たと同じだ、と言ってますよね。いわゆる信念です。力です。そういう力が、いうならば、ね、サントマイロの方にでも、ロンドニアの方にでも、そういう働きを、が起きておるのです。
その泥棒に入られんですんでおかげを頂いたという人が、(次に?)に参って来た。その両隣に泥棒が入った。けれども、そのご信者の家には、何一つ盗られるものはなかった。ね。次には、そういう働きにまでなってくるんです。それで、「あなたのとこはどうしてじゃろうか」とみんながたまがったと、というてお礼に出て来たというようなことも書いてございました。
これは、守り守りの力という、いうなら、どこへ参っても天地金乃神様であり、金光大神様ではあるけれども、その守り守りの力によって、ということは、神様を信ずる力によってというのです。
ですから、これはなら、取次者とか、守り守りだけのことではない、お互いの信心の上にもです、そこに信じて疑わない力を頂いて、いうならば信者一人ひとりの、ね、神様を信ずる、いうなら力をね、いろんな問題を通して頂いていかなければならんと思うです。ね。そこに心が安心、そして喜びというものがいよいよ強うなってくる。ね。そこにはね、私はね、やっぱりただの信心ではいけないように思いますね。
そこに、やはり神様を信ずることのできれるためには、神様に、やはり信じられておる自分というものをいよいよ篤く頂いていかなきゃできることではありません。ね。自分がちょっと御結界を外すと、今にも降りそうになる。自分が御結界に就かしてもらうと上がる。なるほど、信者は、もうお天気になるようになってなったんだ、というけれども、私自身は、ね、末永先生自身は、神様の凄まじい働きを思わずにはおれないとこういう。そこにいよいよ信ずる力。そこにはほら、そこへ勤めなければ、御結界を空けないというその、いうならそういう精進に裏付けられなければ、信ずる力というものは生まれてまいりません。ね。
まあ、昨夜は、日田の大分支部の共励会でしたから、文男先生がこちらへ、もう遅う十二時頃だったでしょうか、帰ってまいりまして、いつものように、まあ足を揉んで、そして、帰る時には、私は寝て覚えなかったですけれども、ね。そういう何かこう、何ちゅうですか、信じ信じられる仲というかね、これは取次者と取次ぎを受けるみなさんとの間の中にです、信じ信じられる仲というのは、そういうような信心から生まれてくると思うんです。
そして、日頃の、まあ文男先生が信心を思うてみたらいいです。ね。もう今日は遅いからとか、もう私はその、昨日忘れとったんです。今日は文男先生が来るということは。だから、来る時には、いつも私は、廊下の電気を点けておくんですけど、昨日は忘れとったもんですから、もう電気を消しておったんです。そして休んだ。
だから、
ああ、今日はもう電気消しちゃって、もう寝とるなさいばいな。なら今日はご無礼しようか」と( ? )いいけれども、それこそ暗い中を手探りして、まあ私の部屋にやってきて、やっぱりいつものように揉んで、そしてまた帰って行く。それをこの、何かそこへところへですね、これは文男さんの心のことですから分かりませんけれども、親先生に信じられておる。私は。そういう自負があるのじゃないでしょうか。自分は信じられておると。ね。いうなら、私も信じておる。文男さんも信じておる。
いわゆる、信じ信じられる仲というものから生まれてくるのは、私はね、いよいよの時にまあ、どっか徳を受けられる力というものが、いつの間にか与えられてくるのじゃないかと思うんです。ね。
御結界を外したら、もう天地が崩れる。ね。御結界に就くと、また凄まじい、ね。それを信心薄き者は、もうお天気なるようになってなったんだと言うけれども、私は、ね、とにかく、神様の凄まじい働きを受けて、この南米の地に、取り分けビリグイを中心にして、ビリグイに関わり合うところに、そういうひれいが輝き出しておるんだと、まあ信じておる。これは末永先生の、いうならば「信じる」ね。
合楽理念にもとづくその、による以外はないという信ずる力がね、そういう働きを生みなしていっておると思うんです。守り守りの力。それは神様を信ずる力。ね。同時に、信ずる力だけではなくて、信じられる、信じられておると思うために、私どもの信心精進がなされなければ、「はあ、自分のごたるまで神様が信じなさるはずはなか」という、信じておられても、そういうふうにしか頂き取れないわけです。ね。
自分は神様に信じられておる。ね。また、自分も信じる。信じ信じられる仲から生まれてくるのが、私は、守り守りの力、信者一人ひとりの力だというふうに思いますね。どうぞ。